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ホーム >> 注目情報一覧 >> 習志野市は「ソーセージ製法 伝承の地」

ソーセージ伝来 ドイツと習志野

習志野は「ソーセージ製法 伝承の地」

習志野は「ソーセージ製法 伝承の地」

その、ルーツを追ってみましょう♪

大正3年(1914)、第一次世界大戦の戦雲はヨーロッパ中を巻き込んだばかりか、遠く東アジアまでを覆い尽くしました。明治維新から半世紀にもならない日本は、日英同盟によりイギリス・フランス・ロシアなどの連合国側に立って参戦し、日本の近代化に大きな影響を与えていたドイツと戦うことになり、中国・山東省のドイツ租借地・青島(ちんたお)が、日独戦争の焦点となったのでした。
 同年11月、日本軍の猛攻の前に青島は陥落し、ワルデック総督以下4,715名のドイツ将兵が捕虜となり、彼らは日本に送られ、そのうち約1,000名が習志野に収容されました。

習志野俘虜収容所

習志野俘虜収容所

習志野俘虜収容所(ならしのふりょしゅうようじょ)は、千葉県千葉郡幕張町実籾字実花新田(現・習志野市東習志野)にあった陸軍習志野演習場区域内に開かれた俘虜収容所です。
建設費用は 43,000円で、収容所(1,300坪)に加え、その他所員の詰所、炊事所、物置、附属舎など数百坪という大規模な施設でした。
習志野俘虜収容所長は、西郷寅太郎(さいごうとらたろう)大佐でした。彼は西郷隆盛の嫡子であり、父が反逆者として敗死した後、明治天皇の思召しでドイツの士官学校に留学していた経験を持ち、ドイツに深い理解を持っていました。そればかりでなく、戦争の悲惨さや敗れた者のみじめさも、身をもってよく知っていた人物です。

俘虜収容所での暮らし

俘虜収容所での暮らし

ドイツ人捕虜は徴兵された者が大半であり、母国で様々な職業技術を習得した者も多く、何よりも無為に過ごすことをきらう勤勉なドイツ人らしく日本側が用意した収容棟の他に、ドイツ人捕虜の中で建築技術を持った者がラウベ(あずまや)と呼ばれる小屋や演奏会・演劇を行う為の野外ステージまでもを作ったのでした。

写真は、バラックが右側でラウベが左側です。

習志野映画劇場

習志野映画劇場

捕虜劇団はイプセンに挑戦し、捕虜仲間を講師にした「捕虜カレッジ」や映画鑑賞も行われていました。
写真は、習志野映画劇場の様子です。

スポーツフェスト 人間ピラミッド

スポーツフェスト 人間ピラミッド

サッカーやテニス等のスポーツが盛んに行われていました。

習志野捕虜オーケストラ

習志野捕虜オーケストラ

収容所内にて「習志野捕虜オーケストラ」も組織され、ベートーヴェン、モーツァルト、シューベルト等の演奏会やヨハン・シュトラウス2世の「美しく青きドナウ」までもが演奏されました。印刷所ではフリッツ・ルンプが、日本情緒あふれる絵はがきまで作っていたのです。バラックとバラックの間には菜園が作られ、ビールやワインの醸造までも行われていた。 また、稲毛海岸や成田山などへの観光地への遠足も定期的に行われており、一般の捕虜収容所では考えられない文化的な生活を送っていました。

習志野の人びととの交流

習志野の人びととの交流

このような彼らの捕虜生活は、鉄条網の中で、周辺の日本人とは関わりなく過ごされていたものではなかったのです。周辺の主婦は洗濯物の請負に収容所に通い、肉の仕入れに出たドイツ兵は肉屋にハムやマヨネーズの製法を教え、子供たちは演芸会をのぞいてドイツ兵からラムネをもらうのを楽しみにしていました。収容所見学に来た小学生の一行にドイツ兵がくれた「ボトルシップ」が、それを伝えています。これは、当時、大久保(現在の習志野市大久保)で青果店を営み、習志野俘虜収容所に野菜を届けていた寄付者の祖父が、懇意になったドイツ兵捕虜からプレゼントされたと推測されるものです。
瓶の中の帆船には、旧ドイツ帝国の国旗が掲げられています。

日本のソーセージ製造はここから・・・

日本のソーセージ製造はここから・・・

大正6年、栄養の向上に資する食品としてソーセージに注目していた農商務省は習志野収容所でドイツ兵がソーセージを製造している事を知り、早速習志野収容所を訪問したそうです。
そうして、カール・ヤーンら5名のソーセージ職人は、千葉市に新設された農商務省畜産試験場の飯田技師の求めに応じてソーセージ作りの秘伝を公開し、この技術は農商務省の講習会を通じて、日本全国の食肉加工業者に伝わっていきました。こうして習志野は、ソーセージ製造発祥の地となったのです。ヤーンは最初、伝統の秘伝を公開してしまうことにためらいを示しましたが、西郷所長の熱心な説得に折れてくれたものだと伝えられています。
大久保にある紅谷商店さんでは、ドイツ兵にハム・ソーセージやマヨネーズ、石鹸の製法を教わったそうです。
その他、収容所から房総の牧場に出張してコンデンスミルクの技術指導をした方もいらっしゃいました。ブッチングハウスさんから習った茅ヶ崎の矢崎ハムさん。ヴァン・ホーテンさんは明治屋へ、と日本の歴史に残る方々が習志野収容所にいたのです。

写真は、右から、飯田技師、カール・ヤーン氏

習志野俘虜収容所ゆかりの地

習志野俘虜収容所ゆかりの地

習志野俘虜収容所において、ドイツ兵捕虜がオーケストラ活動を行っていたことを記念し、収容所の跡地にドイツ捕虜オーケストラの碑が建立されました。

所在地
習志野市東習志野4丁目4番地
(東習志野四丁目児童遊園内)
実籾駅から、徒歩20分

当時のレシピで

当時、ドイツの捕虜から伝えられたソーセージが、当時のレシピのままで、再現されています。
現在は、習志野商工会議所が中心となり広めています。各種イベントなどで、販売されていますので、見かけましたら、一度味わってみてください。
当時の、ドイツとの交流を想いながら・・・